当然のように俳句は国語教材から放逐はされることはなかった。
Google Scholarで検索し以下の論文をみいだした。
小学校国語教科書における俳句単元の掲載句に関する課題
人文科教育学会の発行する雑誌「人文科教育研究」の2022年 49号 pp.61-72に掲載されたものだ。
光村図書、東京書籍、学校図書、教育出版の平成 31 年検定版小学校国語教科書を対象に分析したものだ。
載せられている句は意外と正岡子規の俳句革新以前の句がそれなりにある。そのことに驚くとともに正岡子規の俳句革新以降の句といっても例えば、虚子の句を小学校3年、4年で鑑賞するのはちと難しいのではと思ってしまう。
遠山に日の当たりたる枯野かな小学生が枯れた気分を実感できると思えない。まあ、大根の葉が流れていくのよりはいいのかもしれないが。俳句の授業にはたくさんの困難があることがわかる調査資料だった。
桐一葉日当たりながら落ちにけり
そうして季語、イメージを共有するもの、季節を端的に示すものとして重要な位置づけがあったことは多分事実だろうが、引用されている尾形功の文はそのとおりと思わざるをえない。
季語は,四季の変化に富み寄物陳思の伝統を負う日本の文学風土の中で,作者と読者の共通理解を媒介し,俳句の様式性を支えてきたが,科学文明と都市化の進展に伴う季節感の喪失と,国際化の波の中で,季語がどこまでその効用を担い得るかは,今後に残された問題だとしている。切れに関する文で書かれていた「一物仕立ての句」、「取り合わせの句」の違いをしることなく、延々と俳句(もどき)をつくり続けてきた。それはそれで、なんとなく俳句で楽しい日々だったが、知ることはまた違った楽しみをみつけることであり、今後、句集を読み、句を詠むことは続けるとしよう。
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